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「坐漁荘」の主だった西園寺公望 略歴(1849‐1940)

「坐漁荘」の主であった西園寺公望とはどのような人物であったのか。略歴をまとめてみましたので参考にして下さい。

西園寺公望(さいおんじきんもち)

  • 公爵・最後の元老
  • 第12・14代内閣総理大臣
  • 政友会総裁
  • 枢密院議長
  • パリ講和会議全権大使
1849(嘉永2)年右大臣徳大寺公純の次男として誕生。幼名:美丸。
1851(嘉永4)年同じ清華家の西園寺師季の養子となる。
1861(文久1)年はじめて宮中に勤番する。
1867(慶應3)年王政復古とともに参与に任ぜられたのを皮切りに、山陰道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀、越後府知事と維新側の職を歴任する。その後辞職し、名を西園寺望一郎と改め、家塾「立命館」を開いた。
1871(明治4)年パリに留学。 ソルボンヌ大学でアラコスから自由思想を学んだ。
1880(明治13)年パリより帰国。 明治法律学校の創設に参加。
1881(明治14)年中江兆民、松田正久らと「東洋自由新聞」を創刊する。 政府はこれに驚き、涸れに退社を勧めるが拒否。 結局、明治天皇の内勅まで出る事態となった。同年、参事院議官補。
1882(明治15)年憲法調査のため伊藤博文の欧州視察に随行。 (翌年8月帰朝)
1884(明治17)年華族令制定により侯爵となる。
1885(明治18)年
  から
1891(明治24)年
オーストリア公使、ドイツ公使、ベルギー公使を歴任。帰国後、貴族院副議長、枢密顧問官となる。
1894(明治27)年第二次伊藤内閣および1898(明治31)年の第三次伊藤内閣で文部大臣を務め、幅の広い教育を訴えた。
1896(明治29)年陸奥宗光らと「世界之日本」を創刊。
1900(明治33)年枢密院議長、臨時首相を務める。
1903(明治36)年伊藤博文が1900年に組織した政友会の第2代総裁に就任。 松田正久と原敬を総務に任じて党勢の拡大につとめた。
1906(明治39)年桂太郎の辞職で第一次西園寺内閣を組閣、第12代総理大臣に就任。 以後、桂と交代で組閣したため、桂園時代と呼ばれる。
1911(明治44)年第二次内閣を組閣、第14代総理大臣に就任。 2個師団増設問題で陸軍と対立。
1912(明治45)年7月、明治天皇崩御。同年12月大正天皇より大政翼襄の勅語を賜り、藩閥出身ではない唯一の華族出身元老となる。
1913(大正2)年第三次桂内閣を組閣、護憲運動で対立。 内閣不信任案を提出したため、天皇から議会運営の健全化を命じられたが、政友会総裁辞任を上奏してこれに抵抗し(西園寺違勅事件)、桂内閣は総辞職に至る。
1914(大正3)年第一次世界大戦勃発。 日本はドイツに宣戦布告。
1918(大正7)年政友会の原敬に組閣の大命が降るよう工作、政党政治の幕を開けた。
1919(大正8)年第一次大戦終結に伴うパリ講和全権大使。 翌年この功により公爵となる。 英米協調を主張し、皇太子の訪欧を実現し、立憲君主制にこだわった。
1920(大正9)年興津に別荘「坐漁荘」を竣工。
1924(大正13)年藩閥出身の元老・松方正義が亡くなり最後の元老となる。 病床の大正天皇に代わる宰相の若き皇太子を補佐し、後継首相の推薦という立場に置かれる。
1926(大正15)年大正天皇崩御。安定した立憲政治のために、政党はもとより、皇族・貴族にも工作を行ったが、政党自身の権力志向と、軍部の台頭により思うようにはいかなかった。
1936(昭和11)年2・26事件の後、元老辞退を決め、後継首班の推薦は内大臣中心に行うよう変更した。 しかし、立憲政治の健全化にこだわり、全体主義化が進む中で、反対の立場を表明し続けた。 第2次近衛内閣成立には同意を拒んでいる。
1940(昭和15)年「坐漁荘」で91歳の生涯を終える。 国葬の処遇をうけた。
1951(昭和26)年「坐漁荘」を記念財団が管理することとなり、一般公開。
1970(昭和45)年6月、「坐漁荘」を解体。
1971(昭和46)年3月から愛知県犬山市の明治村に「坐漁荘」を移築、現在も公開されている。

掲載日 2007.11.17